「長曾祢虎徹」

「いつのまにか、勝太が股間をまくりあげているのである。異物が勝太の両掌のなかで
雲をえた竜のように天にむかって動いている」
 

司馬遼太郎が書いた、初恋の少女に自分の股間をさらけ出して、赤誠を示す少年勝太で
ある。この宮川勝太少年が後年、虎徹を振るって歴史の表舞台に躍り出る、近藤勇になろうとは神のみぞ知る運命であった。
 

古来、古刀(戦国時代以前に作られた刀)の正宗、新刀(慶長以後に作られた刀)の虎徹が、もっとも良く知られた刀剣であろう。だが鎌倉時代に作られ、信のおける在銘が2~3本
の正宗とちがい、350年ほど前に作られた虎徹の刀は製作した年月まで刻してあるものがあり、その活動時期が明確になっている。
 

近江国(滋賀県)長曾祢村から北陸地方に移住した、甲冑師(鎧兜の制作者)の家に生まれ
虎徹は、加賀百万石の太守前田利常候の御前で、「兜試合」をすることになった。虎徹が作った兜を、刀工正次の刀で切ることができるか否かという試合である。
 

虎徹が兜を置くと、正次が大上段に振りかぶって身構える。負けると感じた虎徹は「待
った」声をあげて兜を置きなおした。気勢をそがれた正次は一寸ほど切り込んだだけで負けになった。だが誰よりも負けを感じた虎徹は、甲冑師をやめ刀工になったという。
 

江戸で刀工として名声を得た虎徹の耳に、刀工正次の娘が吉原で遊女になったとの噂が
はいる。虎徹備前岡山の池田候の注文に300両という法外な報酬を求め、その金で娘を救い出した。後日、事情を知った池田候は虎徹の人柄に惚れこみ、おおいに宣伝をしてくれたという。
 

誠にゆかしい話ではあるが、実は講釈師の大島伯鶴や小説家の岡本綺堂などが作り上げ
た物語りである。それに虎徹自身が「本国越前之住人」と銘を切っているし、正次を大和大掾正則とする説もあるから、信ずるに値しない。
 

しかし虎徹が甲冑師出身で、五十才になるころ江戸に出て刀工になったことは真実であ
る。そして彼が刀工として、自分で「籠釣瓶(かごつるべ)」と添銘するほどよく切れる刀を作る、抜群の技量をもっていたことも事実である。そのため虎徹の晩年にはすでに贋物が出回っていたという。「籠釣瓶」とは籠で作った釣瓶桶では水が漏れてしまう。つまり水もたまらぬ、という洒落である。
 

新選組血風録』では近藤勇は芝愛宕下、日陰町にある相模屋伊助という刀屋から、浪
士隊参加の支度金20両で虎徹を買ったという。予算を聞いた伊助が「こいつは田舎者だな」と思うくらいだから本物が買えるわけがない。

 

会津中将様御預り新選組である。御用のすじがあるによってあらためる』いうなり
土間から床、床から階段へとびあがり、五六段駈けあがりざま、キラリと刀をぬいた。この時の刀が二尺三寸五分、虎徹である」と司馬遼太郎は書く。
 

ところがこのニセ虎徹がよく切れた。この有名な「池田屋切り込み」の後、勇が養父に
送った手紙に「永倉新八の刀は折れ、沖田総司の刀は帽子折れ、藤堂平助の刀は刃ササラのごとく、伜周平は槍を切られ、下拙刀は虎徹ゆえにや、無事に御座候」と自慢するほどの刀だったのである。刀は道具だから使い手によって名刀になるのであろう。
 

近藤勇は他にも虎徹をもっていたという。豪商鴻池家から譲られたものと、新選組隊士
斎藤一が京都の四条通り御旅所前にある夜見世で、5両のところを3両に値切って掘り出した虎徹である。『新選組血風録』では詳しい記述がないのでわからないが、やはり無銘であったと思う。   
 

作家の古川薫氏は鴻池家から譲られた虎徹も無銘だとしている。しかしこれは信じられ
ない。たしかに虎徹は「大名もの」といわれるほど高価な刀ではある。しかし豪商をもって天下に知られた鴻池家が、無銘の虎徹を贈るはずがない。鎌倉・南北の古名刀ならいざ知らず、いかに虎徹といえども新刀無銘を鴻池家が所蔵するとは考えられない。さすがに司馬遼太郎は「長曾祢虎徹入道興里作と箱書きがある」と描写している。ということは、近藤勇所蔵の虎徹は2本が無銘、1本は在銘ということになる。
 

これまでも近藤勇虎徹というものが数本、世間に紹介されたが、いずれも決定的証拠
がなく、いまだに行方不明のままである。なお、近藤勇が最後に帯びていた刀は、阿波の吉川六郎源祐芳(阿州祐芳)の作であったという。
 

巷間、近藤勇虎徹は源清磨の作であったという説がある。司馬遼太郎斎藤一の口を
借りて清磨説を書いている。しかし清磨と虎徹では作られた時代も、作風も全く違う。上総介兼重(宮本武蔵の愛刀といわれる)や大和守安定(沖田総司の愛刀といわれる)それに法城寺一派ならともかく、清磨の作を虎徹と鑑るのは無理がある。これは幕末に「四谷正宗」と称賛された、清磨の名前に惹かれた説であろう。余談だが、斎藤一の愛刀「摂州住池田鬼神丸国重」だったという。


虎徹は生涯に250本ほどの刀を作ったといわれる。その中で重要文化財に指定されてい

るものは5本。(江戸時代以降に作られた刀剣に国宝はない)そして中津藩奥平家伝来と守
山藩松平家伝来の2本が双璧といわれる。その他にも有名な久貝因幡守の目の前で石灯篭を切ったという「石灯篭切」や伝説の「浦島虎徹」、「稲葉虎徹」はじめ、多くの名刀がある。

 

井伊直弼勝海舟大久保一翁、木戸孝充それに山岡鉄舟などなど錚々たる人物が愛刀にしていたから、いかに虎徹の人気が高かったかが容易に想像できる。もちろん現代でも愛刀家垂涎の的で、それだけに贋物も多い。


数年前、埼玉県名刀展に重要美術品に指定された虎徹が出品された。長さ二尺三寸七分
で、姿・刃文とも典型的な虎徹である。昭和十五年に重要美術品になっているが、そのときの名義は土佐の山内豊景侯爵である。筆者がこれまで手に取って見た刀剣では、もっとも高価な刀剣であった。

「贋物(にせもの)作りの話」

18世紀後半より以後に作られた刀剣を新々刀(しんしんとう)と呼びますが、その中でも
名工の誉れ高い大慶直胤(たいけいなおたね)の息子直勝の弟子に、細田直光という刀工がいました。しかし刀剣界ではこの名前ではあまり知られてなく、「贋物造りの鍛冶平」の名で知られています。

 

通称は平次郎。双龍子とも号しました。彼はなかなかの技量をもつ刀工でしたが、明治
維新後の動乱期に遭遇し、刀剣の需要が低迷したために贋物を作りました。

 

彼は長曾祢虎徹(ながそねこてつ)や大慶直胤の贋物を得意としましたが、専門家でも本
物とまちがえるものを作ったのです。しかもよほど自信があったのか、『鍛冶平真偽押形』という、本物と贋物の銘を集めたものまで残しました。これは後世の贋物研究のよき研究資料になっています。

 

明治42年12月ですから100年以上も昔の読売新聞に、「贋銘刀全国大会 秋田市に落ち
合う」という見出しの記事が載っています。

 

「俺は贋物師ぢゃと名乗って出て、いい腕ぢゃと賞められ、それで立派に商売になって
行くのは刀剣商より外にあるまい」と書き始める内容は、全国の贋物作りの職人が秋田市に集まり、贋物作りの腕くらべをするというものです。「而して竹光が正宗になり、兼錆が長船になり、五円の物が百円二百円の値となって、全国に散って行くのだからおもしろい」ともあります。

 

記事には日本一の贋銘師と名乗る、神田雉子町13番地の服部寿三郎という人の、「客が
くれば10円の正宗でも100円の正宗でも、お好みに応じて差し上げます。贋銘も私ほどになれば名人で、華族の誰様も誰々様も皆、手に乗っているので、彼奴は贋物師ぢゃと知ってくれるほど商売になります」というインタビューまであります。

「無銘刀 本当の作者は。小松正宗の話」

『刀剣名物帳』の上巻、正宗の部の筆頭に「小松正宗」という短刀が挙げられています。

 

製作されたときから無銘(これを生(う)ぶ無銘という)で、長さは九寸七分半(29、3㎝)。名物帳の解説文は現代文になおすと「小松中納言利常公が正宗としてお買いになって、前田家お抱えの本阿弥光甫に見せたら、その通りですと答えた。それではと本阿弥本家に鑑定させたところ、延寿国資(えんじゅくにすけ)の作だといわれた。そこで鞘
を作り、小堀遠州に無銘とだけ書かせて再鑑定させた。すると今度は行光と鑑定した。さらに研ぎなおして鑑定させたら正宗となった」とあります。つまり本阿弥家の分家で正宗と鑑定された短刀が、本家では延寿、行光そして正宗と変わっていったというのです。たしかに地鉄と沸(にえ)の明るさは正宗の作風ですが、やや大振りで姿や中心(なかご=柄の部分)の形が異風です。

 

小松中納言は有名な加賀百万石の前田利家の4男で、同藩3代目の大名ですから、このよ
うなこともできますが、現代の一般人だったら延寿で決まってしまうでしょう。しかし延寿と正宗では評価額に雲泥の差があります。小松正宗の代付(評価額)は若狭正宗の1000枚についで700枚と、名物帳のなかで二番目に高いのです。大判1枚は10両ですから、7000両にもなります。もちろんテレビの何でも鑑定団と同じで、実際の価格ではありません。

 

それにしても延寿国資と鑑定された短刀が、系統のまったく異なる行光や正宗になると
いうのでは、安心して買うこともできません。(行光と正宗は師弟もしくは兄弟弟子なの
で、作風がよく似ていますから、鑑定が変わることは不思議ではありません)

 

小松正宗は現在は三島市の佐野美術館所蔵で、同館で開かれた「正宗展」の図録には「
正宗の求める思いの丈と、本阿弥家の鑑定の世界とを垣間見せてくれる」とあります。
 

『刀剣名物帳』は享保年間に、将軍吉宗の指示により、本阿弥家が作成したものといわ
れます。その本に先祖の鑑定がくつがえった事を堂々と書く、本阿弥家の刀剣に対する厳しい心構えと、鑑定が変わっても本阿弥家の権威はゆるがないとする自信には感服するばかりです。

 

最後に本阿弥家の名誉のために、鑑定のむずかしさを伝えるお話を一つ。明治37~8年こ
ろ、網屋刀剣会という鑑定勉強会に、鎌倉時代初期に作られた守家の太刀が出ました。当時、目利きとして自他ともに許した今泉六郎(獣医学博士)は、これを江戸時代の多々良長幸作と断定したのです。しかしこの太刀は本多家伝来の名刀で、後には重要文化財に指定されています。昔から大切に扱われてきた名刀は、研磨によって磨り減ることもなく、新刀のように健全なので、見間違ったのでした。岩崎家旧蔵で国宝になっている「光忠・光徳」の金象嵌の刀も、あまりに健全なので新刀ではないかと噂されたこともありました。

「折り紙付き」と「札付き」

折り紙付きと札付き。取り違えそうによく似た言葉ですが、意味はまったく反対です。
小学館の『国語辞典』によると、折り紙付きは「確かなものだと、うけあうこと。保証つき」とあり、「札付き」は「わるいと定評のあること、また、その人」とあります。そして一般的に「折り紙付き」は物品につけられ、「札付き」は人間に付けられることが多いようですが、これはその語源に由来するのです。

 

現代の戸籍簿に相当するのが「五人組帳」や「宗門人別帳」ですが、これには世帯主以
下、同居する家族の名前と年齢および続柄が記載されています。

 

江戸時代は武士、庶民を問わず連帯責任なので、犯罪者が出ると家族はもちろん五人組
や組頭、名主まで処罰されました。ですから犯罪を犯しそうな乱暴者は五人組帳から取り除きます。そのとき五人組帳の該当者のところに「何年何月〇〇により除け帳」などと書いた札を張りました。これを「札付き」と呼びます。除け帳になった者は無宿人です。

 

「折り紙付き」の折り紙は、室町将軍家以来、信長、秀吉、さらに徳川将軍家に仕えた
刀剣鑑定の家元である本阿弥家が発行した、刀剣の鑑定書です。

 

和歌などを書くのに使用する懐紙を、横に二つ折りにし、鑑定した刀の名前と長さそ
の評価額と年月日などが書かれています。裏には角形の中に「本」の字の大きな黒印が押してありますが、この印は本阿弥光徳が豊臣秀次から拝領したものです。

 

本阿弥家は鑑定を依頼された刀を、初代本阿弥陀仏妙本の命日である毎月三日に、本・
分家11家が本家に集まり鑑定をしました。ですから三日以外の日付の折り紙は偽物です。

 

本来は刀剣の真贋を認定する折り紙でしたが、江戸時代も中期以後になるとワイロの道
具になりました。何故なら武士の象徴である刀剣の贈答は、儀礼として認められたのです。

 

たとえば本阿弥家に「この刀に代10枚の折り紙をつけてほしい」と頼み、その折り紙を
付けて刀を贈ります。貰った方はそれを本阿弥家に折り紙の値段で売ります。もちろん代金10枚(100両)はあらかじめ預けてあります。このような折り紙を「柳沢折り紙」と呼ぶ人もいます。これは柳沢吉保が五代将軍綱吉の寵愛を受け、権威を振るうようになったころから出回りはじめたからです。

 

今でも折り紙付きの刀がありますが、さすがに現代まで伝えられたものは、大名家伝来
の名刀が多いのですが、中には似たような刀に付けた「合わせ折り紙」もありますから、注意が必要です。お互い、折り紙付きにはなれなくても、札付きにはならないように。

「消えた名刀」

現在我が国には300万本とも、400万本ともいわれる日本刀があるそうです。たしかに刀
剣登録制度ができて70年近くなる今でも、数百本の刀が新規登録されています。膨大な数の中には、国宝や重要文化財に指定されている名刀から、野鍛冶が作ったような鈍刀までもあります。しかし長い歴史の中で消えてしまった名刀もたくさんあります。東善寺右馬介から本庄重長が分捕り、豊臣秀次・秀吉・島津家とわたり、徳川家康に献上された「本庄正宗」や、熊本の阿蘇神社に伝来した「蛍丸国俊」は、太平洋戦争敗戦後のドサクサで行方不明になりました。また戦火によって焼けてしまった名刀もあります。

 

藤四郎吉光が忠義の刀とされる伝説のもとになった「薬研藤四郎」と、「実休光忠」は
本能寺の変で焼けました。一期一振藤四郎や、骨喰(ほねばみ)藤四郎は大坂夏の陣で焼けました。しかしそれらの名刀は、豊臣秀吉徳川家康によって再刃されました。刀剣は火災にあうと焼きがもどってしまいますが、原形さえ残っていれば、再び焼き入れをすることができます。もちろん本来の姿や刃文とは少し変わってしまいますが、名工がなおせば一見しただけでは再刃に見えないくらいになります。一期一振藤四郎は家康が抱え刀工の康継に再刃させ、尾張徳川家から孝明天皇に献上され、御物になっています。

 

「義元討捕刻彼所持刀 永禄三年五月十九日 織田尾張守信長」と金象嵌銘のある、有
名な「義元左文字」も明暦の大火で焼けましたが、やはり再刃して建勳神社に奉納され、重要文化財になっています。この刀は三好宗三から武田信虎(信玄の父)に贈られ、さらに今川義元織田信長豊臣秀吉徳川家康と、戦国の英雄の愛刀になったものです。

 

豊臣秀吉から伊達政宗に下賜され、不祥事をおこした家臣を、政宗が燭台ごと切った「
燭台切光忠」は、家康の息子の頼房(水戸徳川家初代)が盗むようにして、政宗から手に入れた名刀ですが、関東大震災のときに焼けてしまいました。

 

数年前、坂本龍馬の子孫家より、京都国立博物館に寄贈された刀が、龍馬の愛刀の陸奥
守吉行と判明しました。この刀は姿や刃文に吉行の特徴がないので疑問視されていたのですが、子孫が書き残した文書により、1913年に火災にあい、そのために変形したことや、特殊レンズで本来の刃文などが確認され、本物と鑑定されたのです。 

 

太平洋戦争の空襲でも「御手杵の槍」が焼けてしまいました。これを惜しんだ結城氏の
地元の人たちが、またこの槍が伝来していた松平大和守家ゆかりの地元の人たちが、それぞれレプリカを作りました。

 

平成31年静岡県三島市の佐野美術館で、「蘇る名刀展」が開かれました。合戦や火災
などによって焼けてしまったが、再刃して、再び命を吹き込まれた名刀を集めた展覧会でした。

「刀を見る、観る、鑑る」

博物館や名刀展で、背伸びをしたり腰をかがめたり、果ては顔をスライドさせている人
を見掛けたことはありませんか。何をしているんだろうと不思議に思うかもしれません。

 

実は、その人は刀を鑑賞しているのです。

 

日本刀は砂鉄を溶かして、その鉄を1000度くらいに熱して、たたいて延ばし形を作りま
す。さらに砂と粘土をまぜたもの(焼き刃土)を塗り、今度は730度くらいに熱して、水の
中に入れて急激に冷やします。そのとき温度変化によって、鉄の組織がさまざまに変わりますが、それはいろいろな角度からの、反射光で見なければ見えないのです。

 

日本刀の美的要素は、姿(反り)と地鉄と刃文です。姿(反り)はその刀の作られた時代の
戦闘様式や、当時の好みによって変わります。初期の日本刀は柄に近いところに反りの中心があります。しかし時代が下がる(現代に近くなる)にしたがって反りの中心が先の方に移ってゆきます。

 

地鉄というのは刀の表面に現れている微妙な模様です。刀を作るときに熱して延ばし、
それを折って重ねてまた延ばす。これを「折り返し鍛錬」といいますが、この折り返す方向によって刀の表面に木材のような模様ができるのです。

 

最後に刀の形になった鉄に焼き刃土を塗り、これを熱しから水の中に入れ、急激に冷や
します。いわゆる焼きをいれるのです。このとき焼き刃土を縫った部分と塗らない部分に温度差がおこり、刃文になるのです。刃文は「沸(にえ)」と「匂(におい)」で構成されますが、両方とも科学的にはマルテンサイトと呼ばれるものです。小さな点のようなものですが、その一つ一つが肉眼でわかるほどの大きさを「沸(にえ)」、一つ一つには見えないものは「匂(におい)」です。

 

このほか刀身の表面にうすく霧というか、霞というか、ぼやけるようにたなびく模様も
あります。備前長船で作られた刀に多くみられるものですが、これを「映(うつり)」といいます。

 

これら地鉄や刃中に現れた変化を「働き」と呼びますが、この働きは反射光でなければ
見えません。基本的には45度くらいの角度で見るのですが、その角度を得るために背伸びをしたり腰をかがめたりするのです。そしてその角度を保つために体をスライドさせるのです。もちろん手に取って鑑賞するのなら刀を動かして鑑賞します。

 

日本刀は書画や彫刻とちがって、反射光を利用するテクニックが必要です。しかしテク
ニックさえ覚えてしまえば、鉄の変化が織りなす深遠な美しさを堪能できます。

 

あなたもぜひ、背伸びをしたり腰をかがめて日本刀の微妙な美しさを鑑賞してください。

「刀の名前」

刀にはさまざまな名前があります。正宗、国広、虎徹。そして包丁正宗、山姥切国広、
蜂須賀虎徹などなど。

 

刀剣は基本的に作者の名前をもって呼びます。正宗が作ったから正宗。国広や虎徹の作
だから国広、虎徹。ですから同じ名前で呼ばれる刀剣は何本もあるのです。同じ人が作った、つまり親が同じですから、いわば兄弟刀です。それらの中で特に由緒や伝説がある刀剣には、特別の名前がつけられます。それを異名とか号といいます。また「刀剣名物帳」に記録された刀剣は「名物〇〇」と呼ばれることがあります。

 

享保2年(1717)に将軍吉宗の命で、本阿弥家が作成したという「刀剣名物帳」には、厚
藤四郎から乱れ藤四郎、さらに焼失の部の一期一振藤四郎まで、34本の藤四郎が記録されています。藤四郎はご存知のとおり鎌倉時代末期(今から700年ほど前)、京都の粟田口という所に住んでいた刀工の一人で、本名を吉光といいます。

 

短刀の名作をたくさん作りましたが、伝説で忠義の刀といわれ、正宗、義弘(江)となら
び「三作」と呼ばれ、大名は格式として一本は持っていなければ、といわれました。そのため前田藤四郎とか薬研藤四郎など異名(号)をもつ名刀が多いのです。

 

異名は持っていた人の名前をつけたもの(石田正宗、江雪左文字など)。形から付けられ
たもの(鯰尾藤四郎、包丁正宗など)。彫刻からつけられたもの(愛染国俊、大倶利伽羅
光など)、切れ味からつけられたもの(へし切り長谷部、燭台切光忠など)、伝説からつけ
られたもの(にっかり青江、浦島虎徹など)等さまざまです・このほかには評価価格からつけられた大般若長光や、拵(外装)からつけられた鶴丸国永などもあります。

 

武人は刀剣を武器としてだけではなく、権威や身分の象徴としても大切にしました。そ
れはいわゆる日本刀以前の、古墳時代の直刀から続いています。埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土して、国宝に指定された鉄剣は、先祖代々の名前と自分の功績を彫り、金がはめ込んであります。その鉄剣をお墓に入れたのです。

 

平家は小烏丸を家宝とし、源氏は髯切(鬼切)と膝丸(蜘蛛切)を伝家の宝刀にしました。
以来、室町の足利将軍家織田信長も、そして豊臣秀吉徳川将軍家も、名刀を伝えてきたのです。数百年の長いあいだ、日本人が守ってきた日本刀は世界に誇れる鉄の芸術です。