「消えた名刀」

現在我が国には300万本とも、400万本ともいわれる日本刀があるそうです。たしかに刀
剣登録制度ができて70年近くなる今でも、数百本の刀が新規登録されています。膨大な数の中には、国宝や重要文化財に指定されている名刀から、野鍛冶が作ったような鈍刀までもあります。しかし長い歴史の中で消えてしまった名刀もたくさんあります。東善寺右馬介から本庄重長が分捕り、豊臣秀次・秀吉・島津家とわたり、徳川家康に献上された「本庄正宗」や、熊本の阿蘇神社に伝来した「蛍丸国俊」は、太平洋戦争敗戦後のドサクサで行方不明になりました。また戦火によって焼けてしまった名刀もあります。

 

藤四郎吉光が忠義の刀とされる伝説のもとになった「薬研藤四郎」と、「実休光忠」は
本能寺の変で焼けました。一期一振藤四郎や、骨喰(ほねばみ)藤四郎は大坂夏の陣で焼けました。しかしそれらの名刀は、豊臣秀吉徳川家康によって再刃されました。刀剣は火災にあうと焼きがもどってしまいますが、原形さえ残っていれば、再び焼き入れをすることができます。もちろん本来の姿や刃文とは少し変わってしまいますが、名工がなおせば一見しただけでは再刃に見えないくらいになります。一期一振藤四郎は家康が抱え刀工の康継に再刃させ、尾張徳川家から孝明天皇に献上され、御物になっています。

 

「義元討捕刻彼所持刀 永禄三年五月十九日 織田尾張守信長」と金象嵌銘のある、有
名な「義元左文字」も明暦の大火で焼けましたが、やはり再刃して建勳神社に奉納され、重要文化財になっています。この刀は三好宗三から武田信虎(信玄の父)に贈られ、さらに今川義元織田信長豊臣秀吉徳川家康と、戦国の英雄の愛刀になったものです。

 

豊臣秀吉から伊達政宗に下賜され、不祥事をおこした家臣を、政宗が燭台ごと切った「
燭台切光忠」は、家康の息子の頼房(水戸徳川家初代)が盗むようにして、政宗から手に入れた名刀ですが、関東大震災のときに焼けてしまいました。

 

数年前、坂本龍馬の子孫家より、京都国立博物館に寄贈された刀が、龍馬の愛刀の陸奥
守吉行と判明しました。この刀は姿や刃文に吉行の特徴がないので疑問視されていたのですが、子孫が書き残した文書により、1913年に火災にあい、そのために変形したことや、特殊レンズで本来の刃文などが確認され、本物と鑑定されたのです。 

 

太平洋戦争の空襲でも「御手杵の槍」が焼けてしまいました。これを惜しんだ結城氏の
地元の人たちが、またこの槍が伝来していた松平大和守家ゆかりの地元の人たちが、それぞれレプリカを作りました。

 

平成31年静岡県三島市の佐野美術館で、「蘇る名刀展」が開かれました。合戦や火災
などによって焼けてしまったが、再刃して、再び命を吹き込まれた名刀を集めた展覧会でした。